宮沢賢治さんの「春と修羅 序文」が納得の件

■府に落ちるタイミング

タイトルの春と修羅の序文にある、

私という現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です

、、、。

しみじみ、おっしゃるとおり!って瞬間がある。

それが、最近。そして今。


■どうなるでもないが

で、自分ちゅーものを、また違う自分がながめてるわけです。

この(また違う自分)ちゅーのが、不変的な「何かか」であろうと思う。

最初の(自分ちゅーもの)が、つまりは、仮定され、浮かび上がった存在で、意識される僕のこと。

こうして、何か書こうかどう書こうかさ迷う僕のこと。


■眺めてる自分

ながめる自分が、過去、未來を超越して、今、いるんだけど、たぶん、続いていくんだろう。

眺められている、被写体の自分は、あくせく生き、役目を終えていくんだろう。

物理的には塵になって、いち物質として、地球を、宇宙を巡るんだろう。


といった感じです。


(さて、何にチャレンジしようかな。。。)